昭和56年8月1日 朝の御理解 (末永信太郎) №56-080
御理解第30節
神を信ずる者は多いが、神に信ぜられる者が少ない。
ええ、久留米の初代石橋松次郎先生は、御神徳は神様のご信用じゃからな、と仰せられたということです。昨日、あのように、夏期信行の終わり、それを御礼を、まあ、兼ねてという訳でもございませんでしたけれども、(大淵?)先生ですか、のお話を、まあ、頂きましたんですが。その、昨日の(大淵先生)のお父さんに当たられます、吉木辰二郎という、大変、まあ、お徳を受けられ、偉い先生でありましたが、私ども福岡の修行中には、まあ、先生の教導を受けさせて頂きました。
その先生がご養子です。ですから、お若い時、いわば福岡と久留米は親子の関係にありますから、いつも久留米にお出でられる。久留米の初代の石橋先生のお徳に、いつも触れておられる。はあ、本当にお道の教師としておかげを頂いたら、ね、本当に、まあ、ああいう大徳を受けさせて頂きたいもんだなあ、とかねがね願い、思うておられた。
ところが、石橋先生ご晩年の頃は、まあ、言うなら(中火?)状態でしょうかね。体が(動かん、取られなくなって?)、いつも裏の長い藤椅子にかけられて、まあ、御取次をなさっておられた。御用であちらへお出でられました時に、藤椅子に長くなっておられる石橋先生に吉木先生が、「親先生、貴方は体がこのような風に不自由になられて、まあ、せっかくのご信心、せっかくの御神徳を、まあ、言うなら人に教えて回られることも出けない。
おかげで、私は若い。そして、あちらこちらにお話を参ります。それには、どうしても御神徳を受けなければ出けません。お道の教師は御神徳を受けなけりゃ、人も助かりません。どうぞ、貴方の御神徳を、ね、まあ、譲って下さいという意味のことを仰ったそうですね。そしたら、やっぱ本気にそう言われたら、やっぱ思いますね。もう、しっばらく御祈念をなさったそうです。
本当にこれが、言うなら弟子とか、本気で自分の信心を頂きたいという者に渡せるのなら、本当に渡したいという思いでお在りになるでしょう。ね、渡せるもんなら渡したいと、まあ、もうそれこそ、しばらく瞑目をされて御祈念をされて、もう、(やおや?)、それこそおもむろに仰ったことは、ね、吉木さん、御神徳はな、神様のご信用じゃからな、と仰ったそうです。
長い時間かけて、もし私が頂いておるものが、言うならば子にでも孫にでも、言うならば教え(産んでも?)与えられるものなら与えたい、与えられるものなら。けれども、こればっかりは神様のご信用じゃからな、と仰せられたという。ね。信心しておかげを受けるという人はあるけれども、本当に神様っちゃ間違いないなあ、と信ずる人は沢山あるけれども、神様に、神に信じられる氏子が少ない。
私は合楽の場合は、その、少ない方の信奉者。合楽でなら、皆が御神徳が受けられる。ね。それは、御神徳を受けさせて頂く手立て、おかげの話ばっかりを頂いておるからであります。ね。もちろん、お話を頂く、御神徳を頂く、お話を頂いて、それを言うならば、言うなら合楽理念の実験実証。そこに、いよいよ神様を疑うにも疑うことの出けない、神様の言うなら信心、信ずるということの確立が出けて参りまして、そして、神様にご信用が頂けるような内容の信心にならせて頂かなきゃならんと、こう。
昨日は、31日の御礼信話会でございましたから、まあ、皆さんの一月間の夏期信行を得られた、その、まあ、実感をね、それぞれに語っておられましたが、中に秋山よし江先生が発表いたしておりました。おかげを頂いて、懐妊のおかげを頂いております。同時に、あれ、こんな熱いことでございますから、体もきつかろう、だるかろう。きついと言やあ、横になって休ませて頂いておりましたけれども、ね、これでは修行にならんと思うて、ね、親奥様がどんな時であっても、絶対横になられない。ね。
この真似をさせて頂こう。もう、楽はするまいと決めて、横に寝ることを、この夏期信行にかけて修行させて頂いたら、不思議で、不思議にきつくないちゅう。そして、出ける御用がもう、一日そこに実験実証が生まれて来る。もう、信心修行とはこれだなと、これで行こう、と。こう、まあ、決めたという一月間の体験を発表しておりまして、私はもう、本当に拍手して素晴らしいと言おうと思うたくらいに、有り難いと思いました。ね。神様のご信用が付くというのはね、私はそういう事じゃなかろうかと思うですね。
もちろん、神様は、そして最後に言うてました。もう、この神様は楽をすることが、一番お嫌いのようですと言ってますね。そうでしょうか。この神様は楽をさせたい、喜び、安心の日々の、言うならば御神徳を受けて、人間の幸せの条件の全てが足らい、ね、暑い日でも暑く思わない、寒い時でも寒さを感じんで済むほどしの、必要なものが必要に応じてのおかげの頂けれるような受け物をも作らせたいというのが、神様の願いなんだ。ね。そこに、なら、そういう信心のけいこをさせて頂くというのに、合楽で言われる心行信行家業の行、と。これが出けずして、神様のご信用はつきませんですね。私はそう思うです。ね。
はあ、もう、金光教の信心は心行ばかりしておりゃ良か、心の行さえしときゃ良か、と。家業そのものを行とすりゃええと、いう中にです、今言う、次の信行です。ね。これは私は、昔、椛目の時代に頂いた御理解ですけれども、楽はせんぞと、楽はさせて頂けという御教えを頂いたことがありました。もう、楽はせんと決める。ね。そして、神様がさせずにはおかんという楽。まあ、例えば、んなら、私が大変お芝居が好きですから、ね、あの、お芝居なんかがあると、なら、お芝居を見たいなあ、とこう思うておった。
けれども、こんな楽はもう、せんぞと。まあ、それだけじゃないですけれども、色々と自分、工夫をさせてもろうて、ね、芝居は見らんと、こう決めさせて頂いたら、神様が見せずにはおかんと、お芝居行きの切符を持って来て下さる方があり、お芝居行きのお弁当を持って来て下さる方があり。そして、その切符を頂いた日には、合楽教会において何も差し支えのないというような日に、おかげを下さるです。
させずにはおかんという働きがありましょうが、これはもう、一時が万事そうです。(前の?)よし江さんが昨日発表しておりました、あの修行を貫かせて頂いたら、ね、もう、せんと言うてもさせずにはおかん働きが生まれて来る。それが御神徳なんだ、それが、神様のご信用なんだ、と。ね。
そうじゃなあと、私に頂いておるものを皆が本当に求めておるから、あげたいけれども、こればっかりは神様のご信用だから、と。んなら、どういうような信心にならせて頂いたら、神様のご信用が付くか、と。もちろん、表よりも裏を大切にさせて頂くような信心。これには、だから、心行が必ず伴うわけ。そんなら、今言う、心行信行て、信心の行。皆さんが夏期信行に一月間をかけられました。ね。
どうでも、一月間おかげを頂く。夏期信行を、ね、させて頂こうと決められて、その信行を頂き抜かれた。そういう信心が、ね、毎日信行にかけて来んなんという意味じゃないですよ。そういう、例えば、よし江さんじゃないけれども、楽はせんぞというようなおかげを頂いたら、もうその次にはです、ね、横にならんで済むようなおかげを頂いて、その楽をせんで済む、言うなら横に寝ておる時間を御用に打ち込んだ。御用に打ち込んだら、そこに生き生きと、ありありと神様の実証が現れて来たと言うのです。ね。
これが続けられる、こういう一心発起がなされる。そして、それが言うならば貫かれる人の上に、神様のご信用は弥が上にも募り勝って来るんだと思うんですよね。あの人はよか人、ええ、なかなか、心が美しい。もちろん、信心のこれはお徳を受ける条件です。そういうことに精進させて頂くということと同時に、いわゆる、心行信行と言われる、心行にこの信行が、言うなら折り目正しく、節度を持って、ね、なされる。そういう人の上に、私は神様のご信用というものはつくもんだという風に思います。どうぞ。